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【浮谷先生コラム第6弾】1964東京オリンピックの思い出

2021/05/14

こんにちは、日本医学柔整鍼灸専門学校です。

浮谷先生コラムも第6弾となりました。

前回東京オリンピックが行われた日付はご存じですか?

答えはタイトルに出てしまっておりますが、今回の浮谷先生コラムのテーマです。

1964東京オリンピックの思い出

皆さんこんにちは。柔道整復学科教員・浮谷です。 

今日は1964(昭和39)年の東京オリンピックの話です。

日本医専の専任で東京オリンピックのことを覚えているのはおそらく、私のほかには奥田校長・岸本副校長のお二人ぐらいでしょうか?もう半世紀以上前のことですから、このブログを見ている若い皆さんは生まれていません。知らなくて当然です。

かく言う私も「思い出」とは名ばかり?実際記憶しているのは開会式直前に『聖火リレー』が目の前を通った!ただそれだけなんです。

現在も国内各地から少しずつ「聖火リレー」が始まっていますが、当時も順調に進み、終盤千葉県に入って、いよいよ地元・市川市を通過するまでに至りました。

当時から自宅が国道近くで、周囲も市役所以外は高い建物がなく、二階の窓から聖火ランナーの姿を見るつもりでいました。診療所のスタッフや、お手伝いさんらが直前になってそわそわして「来るわよ、来るわよ!」と言っていたのを覚えています。

やがて沿道に煙がたちこめ、オープンカーと白バイに先導されながら一人のランナーがあっという間に駆け抜けていきました。私はその時誰かに抱っこされたのか、それとも必死に背伸びして窓からのぞいたのか忘れましたが、てっきりそのランナーがマラソンの競技とばかり思っていました。オリンピックはもう始まっているのだと。

当時のランナーが誰だったのかは分かりません。現在みたいにタレントや有名人は走らなかったと思います。

1964年当時、幼稚園生だった私は大会の競技は知りません。おそらく毎晩放送された(当時は白黒テレビの)スポーツ番組とかオリンピック・ハイライトを家族で観ていたと思います。当時の記録ではあの期間、どの放送局もオリンピック一色だったようです。

一年たって小学生になり、今は無き「市川東宝」で従兄弟たちと『東京オリンピック』記録映画を観ました。思えば映画館なるものに行ったのはあれが初めてだったかもしれません。

市川(崑)監督の話題作だったらしく場内満席で立ち見でした。それまでテレビの白黒画面しか知らなかった私は大スクリーンでしかもカラーの映像に圧倒されました!

マラソンのアベベや、惜しくも3位に終わった円谷幸吉、重量挙げの三宅義信や体操のチャフラフスカの姿を目にしたのはこの時だったと思います。アベベはエチオピア、チャフラフスカがチェコスロバキア出身ということもこの時記憶しました。

そして忘れてならないのが音楽、そう古関裕而さん作曲の開会式・入場行進曲です。あのマーチも記録映画で知りました。

小学校では私の時代、45分授業で午前中は4限でした。2限目と3限目の休み時間は「業間体操」と言って全校生徒が校庭に集まってラジオ体操をしました。

その時の集合を知らせる楽曲が何と古関さんの東京オリンピックマーチだったのです。 小学校卒業まであの曲は私にとっては「業間体操」のテーマ曲でした。

歳を重ねると昔のことばかり思い出しますが、最後に一言、「東京オリンピック」映画を観に行ったと記しましたが、実はもう一つの併映作品の方がメインだったのです。

その作品とは・・・ジャーン‼ 

『三大怪獣・地球最大の決戦』でした。こちらも立ち見でした。

オリンピック映画のアベベや東洋の魔女も感動しましたが、何たって小学生の自分はゴジラ・モスラ・ラドンそしてキングギドラですよ! (若い皆さんへ、この時代まだウルトラマンは誕生していません。念のため。)

現在も私の書斎には三大怪獣+キングギドラがミニチュアで陣取っています。

オリンピックの思い出が最後は怪獣映画になってしまいました。

当時の流行語から

 

「 こりゃまた失礼いたしました‼ 」

(監修/浮谷英邦先生:歯科医師・介護支援専門員)

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